2015_07
02
(Thu)11:55

ほんのわずか(4)

2014/6/16初稿、2014/9/11一部修正、2015/7/2修正の上通常公開





どんなにショックなことがあろうとも
初体験を意外な形で迎えようとも
暖かい夢を捨て去ろうとも

人は働かなくてはならない。

だって、働かないと食べてはいけないから


■ほんのわずか(4)



キョーコはいつもより1時間近く早く出社した。

1人逞しく生きていくためには仕事が不可欠。だが、早く出社した理由は別にある。

(こんなんじゃ人がいるときに着替えられないじゃない)

キョーコは半袖のインナーシャツから覗く肌をみてため息をついた

今朝、鏡を見て驚愕したのだ。
肌に残るいびしいほどの鬱血痕が、それはもう至る所に。
キャミソールでは覆い隠せないし、半袖インナーでもギリギリと言ったところ

(これ、キスマークっていうやつよね?。こんな跡を残すって遊び人としてどうなのよ)

ブチブチと心の中で文句を言いながらブラウスのボタンをはめていたら更衣室のドアが開いた。

「おはよう。キョーコちゃん」
「!!!…おはようございます。大原さん」

慌てて首元までボタンをかけて、愛理に挨拶をする。

「下で椹部長と一緒になって聞いたわ。石橋君の仕事手伝ってもらったんだってね。ありがとう」
「椹部長から…。もしかして大原さんが今日早いのって」
「昨日石橋君に何度も書類出してっていったのに『後で、後で』の連発。きっと朝イチいるんだろうと思ったから、早くきたんだけど…」
「すいません。余計なことして」
「全然!時間に余裕があるほうがいいに決まってるし。こちらこそ残業させちゃってごめんね」
「いえ、そんな」
「あ、慣れちゃった?」

愛理は勢いよくワンピースを脱ぐと、制服用のブラウスを羽織ってため息をついた

「石橋君もね~。仕事ふるの上手になってくれたらもっと効率上がると思うんだけど。」

やれやれという様子にキョーコは少し笑ってしまった。

「同期でしたっけ?」
「そうよ。敦賀君もね」

今は聞きたくない名前に無意識に視線がそれた。

蓮からは昨夜も今朝もメールがあった。なんだか歯が浮くような言葉と次会えるのはいつかというメッセージ
キョーコは今朝のメッセージに昨夜のお礼のみを送信した。

「軽いお付き合い」なんて経験は皆無のキョーコにとって、蓮の社交辞令にどう返すのがスマートなのか分からない。
『男と軽くスマートにつきあうテクニック』なんて本があったら即購入するのに。ハード版は財布的に痛いから文庫本…いや、新書版でも。
しかしながらそんなハウツー本は今手元にない。つまり分からないから触れないことにして、向こうの社交辞令が終わるのを待つことにしたのだ。
そのうち連絡はこなくなるだろうし、もし直接話す機会があったら「1度きりだってちゃんとわかってますから大丈夫ですよ」と言ってもいいかもしれない

「…敦賀さんとお2人が同期ってなんか意外ですね」
「男前だけど…なんだろう?老成してるっていうの?新入社員の頃からあんな感じよ。仕事異常にできるから、入社4年目であっちは主任、石橋君はヒラ。較べられて、しかも直属の上司にされるだなんてちょっと可哀そうよね。」
「そこで僻まないあたりが石橋さんのいいところなんじゃないですか?」
「そうなのよね~。それどころか『敦賀君と仕事できるなんて嬉しい』って本当に思ってるんだから。どこまで人がいいんだか」

そうぼやく愛理の言葉には温かみがある。仕事の振り方がなんて言いながらも仲のいい同期なのだ。

「石橋さん、大原さんみたいな恋人できたら幸せになれそうですよね」
「キョーコちゃん、それは石橋君には言っちゃダメよ。可哀そすぎるから」
「え?」

なんでもないわ、と愛理は続けた。

「敦賀君も、石橋君が仕事上手に任せられるようになって欲しいと思ってるみたいで、気心の知れた同期の私と組ませたみたいなの。だけどなかなかうまくいかなくて…」
「事務処理は大原さんに任せて、営業に専念して大きな仕事してくださるようになるといいですね」

口にしてから気が付いた。これは昨夜蓮から聞いたことをそのまま言っただけだと。
あんなことがあったのにもう影響されている自分に嫌気がさす。

キョーコは少々乱暴にロッカーを閉めた。
ふと愛理の方を見ると、着替えの手を止めてこちらを見ている

「…あの…何か?」
「それ、いいね。今度石橋君にそういう風に言ってみる。『貴方には貴方にしかできない仕事をして欲しいの』とか上目遣いで言ってみようかなあ」
「大原さんみたいな美人にそんなこと言われたら、石橋さん惚れちゃいそうですよね。」
「…キョーコちゃんって本当に鈍いのね。石橋君可哀そうに」
「?何ですか?」

身支度を終えて、2人そろってロッカーを出る

「昨日の書式、営業のフォルダに入れてますから」
「ありがとう!今度石橋君にランチでもご馳走させるね」

笑いながらそれぞれの席に向かう時、営業マンの予定が書かれたホワイトボードが目に入った。

“敦賀 NR”

どうやら今日は一日外出らしい。
キョーコはホッとした。

*
*

翌日もキョーコは早めに出社した。
まだまだ着替えを誰かに見られるのは抵抗があるので、ロッカーが混む時間帯は避けたかったのだ。

昨夜も今朝も蓮からはメールが来た。電話も1度。

昨夜はどちらも気付かないふりをして、今朝のメールには『おはようございます。昨夜は懇親会でお酒が入ったせいで寝てしまいすいませんでした。』とのみ返信した。

(そろそろ社交辞令期間終了でいいと思うんだけど)

1階でエレベーターを待ちながらため息をつく

「おはよう。最上さん」

ひゅっ、と喉がなった。
当たり前のように隣でエレベーターを待つ長身の美麗。

(いや、同じ会社で同じフロアなんだから当たり前なんだけど)

「…おはようございます。敦賀主任。早いんですね」
「エレベーター混むのが嫌で大抵この時間なんだ。」
「なるほど」

(そういえばいつも私より早く出社していたわよね。)

エレベーターを待つ間のいかにも他部署の顔見知りという感じの当たり障りない会話にホッとする。
もしかしたら社交辞令期間は終了したのかのかもしれない

チンッ!

到着したエレベーターのドアが開き、2人は乗り込んだ。
2人とも同じフロアだ。操作ボタンの前に立ったキョーコは迷うことなく10階を押した

エレベーターのドアがゆっくりと閉まる。

と、同時に背後から大きな手がキョーコの右耳を掠めて操作ボタンを押した

灯るのは8階

そして、左耳すぐ近くから蓮の囁きが吹き込まれる

「今夜は…会える?」

後ろを振り向く勇気はなかった。
声だけでわかる。きっと、蓮の瞳はあの時の色に染まっている。

その色を見なくても…
その声に籠る艶だけで
右耳にほんの少し触れている腕から伝わる熱だけで…


キョーコは俯きながら、小さくうなずいた


チンッ

エレベーターが8階に到着し、蓮は何事もなかったような様子でエレベーターを降りた。
ただ、キョーコの脇を通る瞬間に

「また、後で連絡する」

そう囁いて


「部長、おはようござます。ハンコお願いしますよ!」
「おっ、敦賀君おはよう。朝からいきなり押しかけてきたのか」
「お忙しい部長の時間を確保するには朝が一番ですから」

蓮と経理部長のやりとりが聞こえる中エレベーターのドアは閉まった

キョーコは必死だった。
10階に着くまでに、いつもの顔を取り戻さなくてはならないから


  - ほんのわずかの接触で
           私はいとも簡単に揺らいでしまう  -

(5に続く)
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